NPO法人 地球のステージ
 〒990-2402
山形県山形市小立1-10-30
 TEL:023-625-1182
 FAX:023-625-1206

更新: 2006年5月30日
 
ごあいさつ
ステージの構成です
地球のステージって何?
自主企画です
今後の予定
開催履歴です
プロフィール
写真です
ステージ関連グッズ
 NPO法人「地球のステージ」では、海外において支援活動を行っています。

 

はじめての東ティモール(報告  長谷川さつき)

 


<クリスマスリースを持った長谷川さん>

 

 「長谷川さん、東ティモールに行きましょう。」


 すべてはこの一言で始まりました。
 英語ダメ、テトゥン語など聞いた事もない。外国へ行った経験さえほとんどない私が、果たして東ティモールに行けるのかしら?家庭を持った主婦が、一週間家を空ける事なんてできるの?「地球のステージ」のスタッフの人たちは、明確な仕事を持って行く訳だけど、観光地ではない現場で、私は何をすればいいの?
 行けない理由を並べてみたらキリが無かったので、行ける理由に変えてみました。
「言葉なんか通じなくたってやっていける。」これは、ステージを見た方なら解っていますよね。
  私が家を空けて一番困るのは、子供たちの食事です。これは、カレーや卵料理、レトルトを使えば何とかなる。コンビニだって、この際活用させてしまおう。洗濯物は、行く前に子供たちに仕込んでおこう。
  さて、行って何をするのかという目的については、私は仕事で行く訳ではないので、東ティモールの地に立って、その空気を吸い、街を見て、人と会えるだけでいいんじゃないかと考える事にしました。
  逆に、やる事がなければ、お前は行けないの?
  上手くなんて出来ないのが当たり前。失敗して大ハジさらして来ようじゃないの! と、開き直ってしまいました。さて、私の中で行くぞ!と決めると 話はどんどん進み、夫も何度かの説得で許可してくれました。でもやはり、中一と 小五の息子を置いていくのが、一番つらかったですけど・・・。

 東ティモールの行き方

 東ティモールへの直行便は無いので、夕方成田を出発し、インドネシアのバリ島に夜中に着き、そこに一泊して翌朝、デンパサールから ディリ行きに乗り、お昼頃に東ティモールに着くことになります。帰りはこの反対になるので、正味4日間くらいの滞在になってしまいます。

 いよいよティモールだ

 22日昼、遅れて出発した飛行機は 目的地の東ティモールに近づきました。
  右の窓側に座っていた私は、「ティモールが見えてきたよ」の声に「ここかあ!」とカメラのシャッターをしきりに切りましたが「まだ このあたりは、西ティモールかな」との話に ティモールは、西半分はインドネシアなんだとこの時初めて知りました。日本では、図書館や本屋さんで、東ティモールについて調べようとしましたが、あまりにも情報が少なく そんな事も知らないままこの日に至ってました。
  飛行機は徐々に高度を下げていき、いよいよ着陸。
  タイヤが着地するガタガタと言う音を聞いた瞬間、「よっしゃあー!!」とガッツポーズをとってしまいました。手押しのタラップが取り付けられ、いよいよ東ティモールの地に降り立ちました。「うわっ!暑い」 南半球って、本当に今が夏なんだ。(東ティモールが南半球だということも、最近地球儀を見て知りました)
  教科書で習ったけど にわかに信じられなかった長年の疑問が一気に解決しました。
  しかし どこを見渡しても、空港ターミナルビルは見当たらない。
  聞くと、赤い三角屋根の休憩所(に見える)これが 空港だという。
  「そうなんだあー」と納得しながら、ビザカウンターへ並ぶ。 なんと!この建物はプレハブ、屋根はトタンだ。
  ここで 30ドルを支払い、次にパスポートに入国のハンコを押してもらいました。
  「やったー!!今度は無事入国できたぞ!」ほっとしました。
(実は私は、インドネシアを出る時、出国カードをスーツケースの中に入れてしまい、出国できないかもしれないという大きなミスをしていたのです)

 なつかしいロゴマーク

 外ではたくさんの大人や子供たちが集まっていました。
  そして、バイロピテ診療所の運転手が迎えに来てました。
  名前は バルタザール。小柄で、口ひげを生やした、笑顔がかわいい50歳くらいの人でした。
  迎えに来た車はなんと!!
  11月にみなさんの寄付を集めて贈った車でした。
  東ティモールで 「Flontline」と 「地球のステージ」のロゴマークを見られるなんて思ってもいませんでした。車の話は聞いていたけど、実物を見てうれしくなりました。 早速後部座席へ乗り込みました。走行距離7万キロを越えている車には見えないほど状態はよく、前の持ち主の、池邉さんという方が大切に乗っていたのが伺えます。(のちに池邉さんには、あるパーティーで会うことができ、丁重にお礼を言っておきました)

 バイロピテ診療所

 一度ホテルにチェックインしたあと、ゆっくりする間もなく一行は、バイロピテ診療所へ向かいました。ホテルから300メートルほどしか離れていませんでしたが、初めて見るバイロピテは、ステージのスライドやビデオで見ていたものとは雰囲気が違い、言われなければ通り過ぎてしまうところでした。入り口には 金アミや柵はありましたが、きれいなものではありません。地面は土砂や瓦礫が混じっていて、雨季のこの時期、いたるところに汚れた水溜りが出来ていました。車を止めるのも、水溜りをよけないと降りられませんでした。
  これは、ディリ全体に言えることなのですが、道路、歩道、下水といった生活のために必要な施設が整っていないのです。雨が降ると、川のようになってしまう道路や溢れる川を見て、「マラリアや伝染病は減るわけないわ・・・」素人の私でも感じました。
  「あー、こんなところは 飯野さんの出番だなあー」(つくばチームで建設会社経営)と思いました。
  さて初めに、バイロピテのスタッフに挨拶です。
  ステージで見ていたアメリアは、一目見て解りました。
  「おー!アメリアーー!!」と両手を広げて行くと、アメリアも「おー」と言ってくてました。当然 私の名前は知らないでしょうが、お互いだきあってしまいました。
  こちらの挨拶は、お互いのほっぺたをくっつけあうというやり方です。私は初めてだったので、上手くできずカスッてしまいましたが。事務長のセレステ、金庫番のアナ、そして、オーストラリアやニュージーランドから来ている大勢のメディカルスチューデント・・・
とてもいっぺんには覚えられませんでした。
  バイロピテの主な建物は6つあり、よくステージに出てくる赤い屋根の家は、受付と待合室、ダンの診察室、薬品倉庫、そしてアカペトが入院していた部屋(今は検査室 )になっていました。その奥には事務所とミーティングルーム。その右どなりは産科。そして、その前に建っている外科処置室、4畳ほどの桑山さんの外来と歯科処置室の建物。 なんと、その横の建物は結核病棟だというのです。少し離れて、(と言っても10メートルくらい)一般病棟がありました。日本では考えられない配置です。座る間もなく3人は、それぞれの仕事に入っていきます。桑山さんは診察に、須藤さんは内線電話の復旧に、後藤明ちゃんは状況を調べ、足りないものや通訳に大忙し。私は「ここがバイロピテかあ・・・」と、うろうろと歩き回ります。

 外来診察室

 間もなく明ちゃんが呼びに来て、桑山さんが外来を見せてくれるとのこと。
(私は以前、病院に勤務していました)なつかしさと緊張が走りました。
  診察室に入るなり桑山さんが、「このおばあちゃん、何歳だと思いますか?」と目の前の患者さんの年齢を聞いてきました。うーん・・・この感じは、と「84歳くらいですかね?」と答えると 「60歳なんです」 「えっ!?」
私は最初の患者さんでいきなり絶句してしまった。
  つまり、生活苦と栄養不足のため、老化が早いらしい・・・。エスメラルダさん、腰が曲がって杖を突かないと歩けませんでした。ほかにも、どう見ても75歳にしか見えない、やせ細った48歳の結核の男性。孫を連れてきた年配の方だと思った、私と同い年の女性。
  24歳だというのに、やけに疲れた感じの男性・・・ 「これが東ティモールで生活するということなんだ」現実を突きつけらてしまいました。
  でも、関心させられることもありました。
  前述のおばあちゃんのあと来た10歳の女の子マリアちゃん。学校が終わったあと、一人でやってきました。カゼでした。ステージでも出てきたように、子供だけでここに来る人もいましたが、やはり多くはお母さんに連れられてやってきました。お父さんの時もありました。病気の子供を見つめる親の気持ちは、日本も東ティモールも変わりないなと感じました。いや、むしろこちらのほうが、病気が死につながる可能性は大きいはずなので、切実だったかもしれません。

 

ペンシルバルーン

 今回私が、バイロピテで唯一役に立ちそうなこと、それはバルーンアートでした。
  ペンシルバルーンという細長い風船で、動物や花を作っていく、ピエロがよくやる アレです。これは、つくばチームの伊井さんが、骨髄バンクのボランティアでやっていたのを見て、「これなら子供にウケる」と思いおそらく東ティモールの人は見たこと無いかも・・・と、ひそかに(?)習ってきました。桑山さんの外来は、乳幼児や子供もたくさんやって来ます。診察しようとすると泣き出す子も多く、私の作ったバルーンが役に立ったようです。でも、太ももにやけどを負い泣き叫ぶ少女には、あまり役にはたちませんでしたが・・・。
  ペンシルバルーンで子供にうけたのが、ねずみと 犬と バナナでした。身近でよく見かけるものです。ライオンを作っても分ってもらえず・・・つまり、見たことが無いらしいのです。この国に動物園は無いそうで、絵本すらないのかもしれません。ペンギンに関しては、ティトン語の言葉さえ見つかりませんでした。

 内線電話工事

 須藤さんの仕事は、内線電話の復旧でした。 以前取り付けた物が使えなくなったというのです。30度を超える暑さの中、汗だくになりながら作業は続きました。
  特に天井付近の作業は、風も抜けず暑さがこもって頭がくらくらしてきたと言ってました。
  10色に色分けしてある細いコードを「白、クリーム、黄色、水色・・・」と確認しながらつないでいきます。薄暗い中、手元ライトの光だけでの細かい作業です。足りないコードは買出しですが、店といっても田舎の電気屋さんほどの品揃えで、探すのに苦労しました。内線電話は復旧し、6ヶ所すべてから使えるようになりました。
  しかし、アメリアが、受付でもマイクが欲しいと言います。 困りました。 日本だったらまずありえない機材不足。須藤さんとしても、アメリアのがんばりを見ているだけに何とかしてあげたいと考えていましたが、3年前に取り付けていったスピーカーが壊れずに残っていたので、そこにある機材を最大限に生かし、配線し、受付にマイクとスピーカーを設置することができました。ただ、クリスマスと日曜日が続いて、外来で実際に使っている姿を見られなかったのが残念でした。

 何でも屋さん

 後藤明ちゃんの仕事はさまざまです。
  英語とティトン語が話せるので、外来ではアシスタントとして、薬品の種類や在庫状況を調べ、その中で桑山さんは処方箋を書いていくという作業が続きました。
  底を突いていたマラリアの検査薬も、明ちゃんが外部と連絡を取り合い、3ボトルを調達できました。バイロピテから数キロはなれた場所へ取りに行った時使った車は、「フロントライン」の車だったし、検査薬を分けてもらう時支払ったお金は、「ステージ」でみなさんが買ってくれた販売品の売り上げであり、CDや絵はがきがこうやって「命」を支えるために使われているんだと実感しました。

 出会い

 東ティモールにいる間、さまざまな活動をしている日本人に会うことができました。
  偶然にも飛行機とホテルが一緒になった、修道会 聖母訪問の2人のシスター 梅本さんと藤原さん。ディリから車で7時間も離れた田舎の村に行くとおっしゃってました。「東ティモールの平均寿命は46歳なんですよ」と教えてくれました。
  保健、医療活動をしているNGO団体SHARE(シェア)の美砂子さん。2年間の東ティモールでの活動を終え、自信に満ちた素晴らしい女性でした。2年前の調査で、子供1000人中130人が5歳までに亡くなること。流産、死産、未熟児(後に死亡)を4度も繰り返した20歳の女性の話。また、東ティモール人の仕事に対するプロ意識のなさには困ったこと。まずは、人を育てなければ・・・と教えてくれました。
  他にも、自分が不便になるのを承知で、「フロントライン」に車を提供してくれた神様のような池邉さん。とっても面白く強烈なキャラの池田さん。前述の美砂子さんの後任の成田さん、名取さん。とても陽気で豪快なJICAの和田さん。日本大使館の坂部さん・・・。
  初めて会った人たちばかりなのに、話をしていてとても楽しかったのは、それぞれの人たちが個性を生かし、目的を持ち、前向きに生きているからなんでしょうね。また、ぜひ会いたいです。

 
 エルネストとボスコ

<エルネストの家の前にて:左から長谷川、後藤、一番右が須藤>
 

 クリスマスの日私たちは、凧揚げの少年ボスコと、前庭を広く作ってもらったエルネストに会いに行きました。あいにくボスコは外出中でしたが、エルネストには会えました。バイロピテから数百メートルしか離れていません。パソコンで、エルネストの家とお母さんの写っているビデオを見せてあげると、周りにいた家族も大喜びでした。私もバルーンで、アス(ティトン語で犬)を作ってプレゼントしました。 ボスコには夕方会うことができました。

 クリスマスパーティー

 東ティモール最後の夜は、バイロピテの職員みんなが参加のクリスマスパーティーでした。なんと、私たち4人は主賓として迎えられました。桑山さんの英語での挨拶。でも、ほとんどのひとが英語がわからないので、金庫番のアナがティトン語に訳してくれました。
  アメリアのお祈りの言葉とみんなの唱和。日本のパーティーのようなにぎやかな感じではなく、厳かに始まりました。私たち4人には、贈り物として東ティモールの礼装となるタイス(織物)を一人ひとりの首にアメリアが架けてくれました。 感動しました。
  そして、豪華な料理。
  東ティモールでは必ず出てきたチャーハンと牛肉とさやえんどういためのほか、ミートローフやスコッチエッグ、やきとり(?)、サラダイルカ肉の佃煮(?)魚の丸焼き料理もありました。デザートは、明ちゃんお気に入りのプディングと、砂糖を練っただけのクリームでデコレーションした、甘い甘いパウンドケーキ。
  シェアの美砂子さんからは、ティモールの人は、1ヶ月に1〜2回しか卵や肉を食べられないと聞いていたので、かなりの豪華料理だったと思います。(パーティーの席に、患者さんも2〜3人混じっていたようですが)
  宴もたけなわになった頃、「地球のステージ」で、東ティモールの復興を歌った「教えて」のDVDを、バイロピテの職員のみなさんに見せてあげることができました。これには、東ティモールの4年前と現在、アメリアやスタッフも写っています。自分たちや見慣れた風景が映し出されると、指をさして喜んでいました。ダンの診察風景やアップが出ると、全員が歓声を上げました。これを ダンと一緒に見られなかったのは、残念です。
  みんなの喜んでいる様子を見ていて、私自身、この地で「教えて」を主人公のバイロピテのスタッフと共に見られるなんて夢にも思っていませんでした。私は感動して涙が出てきました。「私は、日本のステージで この東ティモールの話を聞きバイロピテでの出来事を知って、どれだけ感動とエネルギーをもらって来たことか。ありがとう」
  この地で、バイロピテのスタッフを前にして、この思いを感じられたのはとっても幸せな体験でした。

 いよいよ東ティモール最終日

 朝から私は気持ちが沈み、無口になっていました。
  そうしたら明ちゃんが「あのビデオの女の子を捜しましょう。」と言ってくれました。
  私が以前、「燃える街の灯」「夢見る頃を過ぎても」に出てくる 目のくりっとした幼い妹を抱っこした7〜8歳の女の子を見てみたい、と言ったのを気にしてくれていたのです。開けた口を指差すあの女の子です。「バイロピテの近所の子だと思うよ。」という明ちゃんの言葉に「地球のステージ」に出てくる話やビデオ映像は、全く違う世界の話ではなく、今、ここにいる東ティモールの、この地の話なんだと、いまさらながら知りました。
  まずは目の前にある雑貨屋さんに、パソコンで写し出された2人の少女を見せましたが解らないと言います。さらに近くにいた子供たちに聞いてみます。 すると、斜め前の家なら解るかもと教えてくれました。明ちゃんもティトン語を駆使して聞いてくれます。 あっという間に人だかりができました。結局女の子はここを引っ越してしまったそうで、それでも電話で連絡を取ってくれたのですが、あいにく外出していたようです。会えませんでしたが、次回につなげられる心残りができました。

 

 バイロピテ別れの時

バイロピテに戻ると、事務長のセレステが日曜日にもかかわらず、来てくれていました。
  明ちゃんに通訳をお願いして「東ティモールでは、いやな思い出が全くなかった・・・」旨の気持ちを伝えてもらいました。
「思い出は、私の心の中に」と、私も精一杯の気持ちを伝えました。意味不明な単語を並べただけなのに、セレステは何度もうなずいてくれました。涙が溢れてきました。セレステは、私を抱きしめてくれました。

 空港にて 

 桑山さん、須藤さん、私は帰国するわけですが、明ちゃんはさらに一週間ほど東ティモールに残り、グレノ市(ディリから車で1時間半くらいのところ)にある、HOPEという孤児院で、活動してくるそうです。(昨日私たちも訪問し、感動する話がてんこ盛りでした)私たち3人は、明ちゃんに見送られる形で 出国カウンターに向かいました。
  インドネシアのメルパチ航空は、1時間遅れの出発でした。(数時間の時もあれば、飛ばない時もあるそうです)出発ロビーで待っていると、桑山さんが、「明ちゃんからだよ」と私に携帯電話を渡します。私は「うわっ・・・」と思いました。今、明ちゃんの声を聞いたら、平常心でいられないのは分っていましたから。案の定、声を聞いた途端、こらえていたものがはずれ、涙がどっと溢れてきました。
  「さつきが帰国することを悲しんでいる。 セレステが心配していたよ・・・」そういった内容の話だったと思いますが、よく覚えていません。私も「明ちゃん、本当にありがとう」を繰り返すばかりだったと思います。
  もっとここに居たいという別れの辛さ、東ティモールでの思い出と、それを提供してくれた人たち。何かやり残して来たんじゃないか・・・と思う悔しさ。そして、日本で待ってる愛する家族への思いと、大切な仲間たち。私は、飛行機が加速し、離陸する瞬間に、 「これを教えたかったんだ」 と今回のスタディーツアーの意味がわかった気がしました。

 帰国して

 一週間ぶりの我が家に入って唖然とした。
  全く掃除をした様子のない散らかし放題の部屋。すでにもらってきていた成績表に一喜一憂し、一気に現実に引き戻されてしまいました。子供たちを叱り飛ばしながら、でも「ケガもなく、よくやってくれたね」と、内心感謝していた。
  お母さんと一週間も離れてくらしたなんて、あんたたち、初めてだったもんね。夜、仕事から帰ってきた夫にもお礼を言った。結婚してだいぶ経つけど、素直に本音で言えたのは初めてだったかもしれない。

 おわりに 

 今回の体験が、私にとって大きな財産になったのは間違いないと思います。
  桑山さんが、「地球のステージ」を作り、伝えたいと思ったきっかけのひとつも、こういった思いの積み重ねだったのではないでしょうか。そして、見るだけでなく、体験してほしい「地球のステージ」。
 私には、「地球のステージ」ほどの大きな経験はありませんが、「さつきの4畳半」くらいからのスタートだと思っています。そして、会員のみなさんも機会があれば、ぜひ参加していただき、自分流のステージを体験して欲しいと思います。

ありがとうございました。

 

 

 

東ティモール支援事業トップページへ

このページのトップへ  
copyright 2004-2005 NPO法人 地球のステージ all rights reserved.