NPO法人 地球のステージ
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 FAX:023-625-1206

更新: 2006年5月30日
 
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                              2002.2.27 UP

アフガン出国

アフガニスタンを出国しました
ヘラートに、渡辺さんとアシスタントのムスタファ君を残して・・・
活動の骨子が決まって、あとは実行するだけ・・特に学校修復は既に動き出しています。なんといっても期限が3月23日の新学期開始まで・・・と決められていますから。

これまで、ホームページを見てくださってありがとうございました。

さて、桑山は2月28日に日本に帰国します。
3月は相変わらずのステージの連続ですが、がんばりたいと思っています。
ステージで皆様にお会いするときを楽しみにしております。

まだまだこのNICCOの事業との関わりは続けていくつもりですので(NICCOがいいと言えばですが・・・)、今後もまたアフガン報告お待ちください。

また、この場を借りまして、これまで募金頂いた方に心よりお礼を申します。確実に、現場においてきましたので、まずは学校の修復費用に使われています。
 
今後も募金など頂けることがありましたら、桑山が責任を持って、事業に直接使われるような使途を心がけますので、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。

桑山 紀彦

いよいよ支援内容決定へ

 桑山の滞在もあと残り少なくなった。
 今回のたち上げのための取り組みの結果、以下の事業の展開が可能となってきている。

教育事業(学校修復事業)
 1)ヘラート近郊の学校5校を目安に校舎の修復と教材の提供を行う
 2)窓、天井、ドアの破損の修復
 3)机、椅子の提供
 4)ストーブの提供
 5)教材(ノート、教科書、鉛筆)の提供

教育事業(職業訓練事業)
 1)OMARとの共同事業
 2)OMARが過去に行っていた職業訓練の復活
 3)英語クラス、コンピュータークラス、タイプクラス
   →ものを作ると販路の確保が課題となるため、裁縫などは困難
 4)男性だけではなく、そうういった職業の選択肢がなかった女性にも門戸を開く

避難民サイト支援事業(Non-food Item提供事業)
 1)小規模の避難民サイトである以下の避難民を対象
    Minalet-1
    Minalet-2
    CTC
    Rawza Bagh
 2)燃料としてのブッシュを提供
 3)屋根の補修材としてのビニールを提供
 4)確認事項
    正確な家族数、家の個数(手書きの地図)、配布の場合の中心人物の選定
    配布を確認するカードの作成、前持って配っておく役割
    当日の警備の手配、次回の予定の公表
 5)2週に1回程度を目安とする
 
避難民サイト支援事業(巡回診療事業)
 1)小規模避難民サイト(上記4つ)の避難民を対象
 2)週1回の巡回診療
    一般内科、小外科・・・周囲の診療所が休みのときの金曜日
    皮膚科、眼科、小児科・・・周囲の診療所が得意でないため平日
 3)簡単な見開きのカルテ(Medical Data)を作成し、向こうに渡しておく
 4)医師1名・・・診察、処方せん発行
    アシスタント1名・・・投薬
 5)金曜日(一般内科、小外科)
    Minalet-1、Minalet-2・・・午前
    CTC、Rawza Bagh・・・・午後
 6)平日(皮膚科、眼科、小児科)
    Minalet-1、Minalet-2・・・月、水、土
    CTC、Rawza Bagh・・・・火、木、日

 これらをイード明けの月曜日から実行に移すべく活動を始める。

 今後とも、変わらないご支援をお願いいたします。

 桑山紀彦





オーバーヒート

 熱がでた
 下痢もなく、風邪もなく、身体に調子の悪いところはないのに、熱が一気に出た。以前も同様のことを経験した。カンボジアでAMDAの仕事を始めたとき、全然休まないで仕事したら、ホテル・ソカライ(懐かし〜)の一室で熱がでた。今はHCR(難民高等弁務官事務所)の職員で
ジュネーブにいる財田(さいた)さんという人が心配して尋ねてきてくれたが、ふらふらだった。
 2回目は、フィリピン。
 毎日毎日精神科のクライエント(患者さん)の家庭訪問で遠くまで出かける日々を繰り返していたら、夜中の2時になり、やっとつかまえたタクシーにもって、マニラに戻る途中、高熱がでた。でも半日休んだら良くなった。

 考えてみると日本をでて既に3週間を越えている。今回はほぼ1カ月のミッションだから、こたえるだろうとは思っていたが、落とし穴があった。それはイスラムの休日と日本の休日の違いである。イスラムの場合木曜の午後から休みになり、金曜日が休みだ。しかし日本的感覚では木曜日も金曜日も「平日」なのである。だからいろんな仕事を見つけて、動いてしまう。しかし日本の休みである土曜、日曜はこちらの国では平日なので、官公庁も普通に仕事していて、またそこで仕事してしまう。だからここしばらく全然休まないで仕事していたのだ。

 しかし悔しい・・同じ仕事している渡辺君(京大学生23歳)はピンピンしているのに、僕だけ熱だ・・・。こちらにいる間に誕生日が来てまた一つ年を増やしてしまったが、そんなこともたた
っているんだろうか。
 
 けど、2時間寝たら楽になった。解熱剤も飲んだ。こういうときはあとはもう熱はらないことにしている。医者が何を言うか・・・という感じだけど、もしもまだ熱があったらくよくよしてしまいそうだからだ。しかし一人でなくて良かった。やはりこういったたち上げの仕事は、2人でやるに限る。3人だと数的に多いけど、1人だと煮詰まってしまいそうだ。

 もうこちらの滞在も数日になっているが、気張っていきたいものだ!!

村の学校修復

 そんな今日は、悪路を走って1時間程度のところにある、サフィデ・ラワン村へ行った。学校の状況を見るためだ。ラワン村の学校は、見た目には立派であったが、中を見ると机も椅子もストーブもなかった。
 かなり劣悪な環境で勉強している。
 今日はイードで学校は休みだが、月曜日以降また訪れるだろう。
 UNICEFが指摘しているBack To School Campaign(子どもたちを学校へ返そうキャンペーン)に我々は乗り、この村と隣の村の学校の修復をやろうと考えている。資材はヘラートでなるだけ調達したい。そのほうが経済効果もあるからだ。我々としては、最低5校の学校修復を急ぎ、3月21日の新学期に間に合わせたい意向である。





市場とイード

 イードという名前はこっちへ来て初めて知った。
 それはイスラムの国ではとっても大切な「御正月」になる。月の満ち欠けから判断してこのイードを決めるので、正直、年が代わる日って、その年によってまばらなんだそうだ。すごいなあ、ある年は12月30日が年末で、ある年は1月2日が年末だったりするのだ。これも「自然」というものに忠実であろうとするイスラム教徒の敬けんさなのであろう。
 さて、このイードで市場はほとんど閉まってしまった。午前中はイードのために羊が売られ、買われ、町中が村から連れてこられた羊のうんこで臭いのなんの・・・一気にヘラートの街がひつじ牧場に変わっていた。そんなにぎやかさも午前のみで、午後になると街はひっそりする。そうまるであの12月31日の午後から夕方にかけてのようだ。みんな家路について、年末のごちそうを作るのだ。で、取り残されたのが、桑山とNICCOの現地駐在員渡辺さんの2人。気付いてみると、レストランは完全に閉まっている。やばい、これは食べ物ないか、3日間・・・

 とたんにあの辛かった旧ユーゴのシポボ村での7日間を思い出す。食べ物がなくて、毎日リンゴとコーヒーだけだった。いや〜、痩せるにはいいよな、やっぱりリンゴダイエットだよ・・・と思いつつ、リンゴって飽きるんだよね・・・でも、そんな事を思い出してしまったものだから、桑山は、市場へリンゴを買いに行ってしまったのだった。飢えたときはリンゴを食べる・・・それはあの旧ユーゴでしみついたクセなのだろうか・・・。で、いそいそとリンゴを買ってかえる道すがら、なんとあるではないか、食べ物が・・・
 交差点の角にいる小さな屋台のお兄ちゃんは、なんか揚げ物をしているぞ・・・。ソーっと近づいてみると、たしかに食べのもだ・・・良かった〜、イードでも食べ物売ってんじゃん・・・
 うれしくなって、その分厚いクレープの皮みたいなものに、スティック型のコロッケとにら、キャベルを刻んだものを巻いたホットサンド風の食べ物を2つも買ってしまった。
 一つが30円。
 きょうの夕食はリンゴも併せて、全部で55円だった。
 日曜日の夜までイードだから、オオ、3食がこれか・・・。
 
 そんなわけで、皆さん、イード(新年)おめでとう

桑山




緊迫した避難民サイト

 今日は金曜日。イスラムの「日曜日」である。かつきょうから本格的なIad(イード、イスラムの御正月のようなもの)に入っているために、国全体がおやすみだ。
 でもきょうも避難民キャンプまわりを続けた。
 今日は、もう一人のアシスタント候補、アクバールくんのある意味での面接もかねて残りの避難民サイトを訪れた。昨日のシャイダイ・キャンプとの余りの違いがくぜんとした。まず、世界的な遺跡、「5本のミナレット」の近くにある
避難民サイト、「ミナレット1」と「ミナレット2」にいった。行くなり住民やそのリーダーたちの大変困窮した様子と、支援の懇願にたじろいだ。このヘラート地域ではIOM(国際移住機構)がそのマネージメントを取りしきっているが、以前より、その「下手さ」に避難の声があがっていた。まさにその「現場」を見たという感じである、避難民の手にはIOMが作った配給カードが配られてはいたが、配給されたチェックの印もない。滞っているわけだ。まず食料、燃料といった生活必需品が滞っているため、住民は困窮しているのだ。衣類などは着たきりスズメでも結構持つものだが、食料と燃料は死活にかかわる。そこに配給の滞りがあるのは早急に改善しないと、死者がでるか、暴動が起きるかのどちらかである。
 IOMのマネージメントのミスを非難することも大切だが、一方でNICCOとしては早急に燃料の支援だけでもしてみてはどうだろうかと思えてならない。このミナレット1、2のような比較的少数の避難民サイトであれば、まずは現実的と思われた。次に出かけた総数11万人のマスラック・キャンプではそうはいかないからである。
 さて、そのマスラックはあまりに巨大すぎて、サイトが1、2、3、4と分けられていた。一番手前にあるサイト1ではまだ人々がおだやかであったが、一番奥のサイト4では、このまま長居したら、囲まれてどうされるかわからないという雰囲気がひしひしと伝わってくるくらい緊迫しているサイトである。
 あちらこちらから怒号が飛び、「外国の団体なんてくるだけで何もしちゃあくれない!」と不満が露である。これはまさに緊急救援の対象だ。このままでは寒気が来ただけで、数十人が死ぬことも十分考えられる環境だ。これもIOMが管轄しているが、配給カードは渡っただけで配給のあとはない。一体どういうことなのか・・・。欧州における経済移民の問題やそのケアでは名の知れたIOMだが、この地の避難民問題にはその対応にあまりに遅れが目立つ。ヘラートの所長、Gill氏にも会ってきたが、自分でも何が起きているかわからない様子だった。
 マスラックのサイト3、4の避難民への支援は急がなければならない。近々暴動へと発展するだろう。しかしHCRもIOMも帰還に目を向け始めている。
 あと雨が200mm降れば・・・と希望的観測を述べるばかりだ。そう、実はこのサイトにいる避難民は最近の避難民で、実は逃げてきた理由が「干ばつ」なのである。従って、HCRもIOMもこの避難民サイトでのケアに力を入れず、なるべく早く返す方法としてWFP(世界食料計画)に相談して4月からの農耕期に合わせ、種を与えるつもりでいる。しかし雨は降るのだろうか。その4月までのケアはどうするのか・・・そこが抜けている。
 NICCO(桑山を派遣している京都のNGO)がこのマスラックに手を出せば、おそらく4億円規模の支援が年間で必要になるだろう。人口から逆算すればそうなる。どうするかの判断は別として、早急に誰かが、このマスラックのサイト3、4のケアに力を入れないと再び悲惨な冬になる。しかしNICCOとしては、ミナレット・キャンプ1、2の燃料支援を緊急にする方向で考えたいと思っている。支援は迅速に、そして「必要」と感じたときこそが重要なときだ。

 月の満ち欠けから判断されて、ついにイードが来ている。
 金曜日から日曜日まで、イスラムの人々は新年を祝う。
 ホテルもレストランはお休み、外の店も大方休み・・・。
 桑山は危うく食事をする場所が失われて飢餓に襲われるところだったが、出店の屋台で買ったサンドイッチ(みたいなもの)をホテルの屋上で食べ、記念撮影をした。
 夕陽が、起元前4世紀の城、シタデルの右側に静かに沈んでいった。

ヘラートの避難民キャンプ

 シャイダイキャンプは、ヘラートの街の東側に拡がる丘の麓の避難民サイトだ。アフガニスタン人がもともとすんでいたところから逃れてきたためにIDP(Internal Displaced Person)、国内避難民と呼ばれる。
 北西部を牛耳るダスドム将軍は中央政府に対して批判的な勢力である。タジク人である彼は、中央政府内におけるタジク人の扱いが低いことに常に怒っており、ダリ人やパシュトゥーンじんといった、アフガンの中では数の多い民族に迫害を加えているといわれている。だからヘラート州には、そういった北西部から逃げてきた避難民が多いのだ。
 ヘラートの周辺には5つの避難民サイトがあるが、最大のものはマシュラック・キャンプで、その数は実に11万人。次いで多いのがこのシャイダイ・キャンプである。その数推定2万人だ。
他のキャンプが閉鎖キャンプ、つまりもう避難民を受け入れない形にしている一方で、このシャイダイだけは開放キャンプであるために、日々避難民の流入が続いている状況である。

 さて、このシャイダイ・キャンプの病気であるが、多い順に並べると、以下のような
 感じになる。
 1)呼吸器感染・・・つまりかぜや気管支炎
 2)腹部感染・・・・つまり下痢や腹痛
 3)皮膚疾患・・・・ただれや擦り傷などの膿
 4)眼疾患・・・・・不潔からくる目の感染

 これは、どこの避難民サイトでも同じ・・。つまり日本でも普通に見かける病気が多いのである。特別なものはあまりない。もちろん結核やマラリアもみかけるが、栄養の悪い人から重症化していっている。それでもマラリアなどは、東ティモールと比べると、気温が低いことと、蚊が育つ水たまりが少ないことが幸いして、数的には少ない。ということは、こういった地域では、一般内科の医師が非常に役に立つ。特に僻地でたった一人でかなりの数と種類の病気を診てきたことのある医師であれば適任だ。来週ヘラートに着任するNICCOの小林医師はそういった意味でも適していると思われる。避難民サイトにいってみて思うことは、やはり、ケアが偏っているということである。情報をより多くつかみやすい男性が中心にいる家庭では、様々なケアの情報が届きやすいが、夫を戦争で失っている場合などは、この国での女性の地位の余りに低さも禍して、孤立しやすい。こういったところでは、従って女性組合を作り、情報のシェアを行うだけでも、結構な支援活動になると思われる。
 相変わらず子どもは無邪気でいい。比較的食料、衣料品などは回ってきているために、子どもたちにも余裕がある。しかし案の定学校は存在しておらず、みんな学校に行けない状況下におかれている。こういったところで、子どもたち相手ののワークショップや青空教室などをすると、非常に子どもたちの良さが伸ばされるように思うが、実際こういった避難民サイトでは学校や教育の分野での活動が少ない。
 それは
HCR(難民弁務官事務所)の方針の一つとして、「難民キャンプが住みよくなると、難民の人たちは帰らなくなってしまうから、適度に住みにくくするべきである」というものがあるからである。
 これは厄介だ。適度に住みやすく、かつ住みにくさもあるように・・・というのはあまりに微妙かつ個人差のあるものなので、我々NGOとしては判断に迷うのが現状である。しかし何れ避難民を、故郷に返すにしても、全く教育という環境のないままでおいていいはずがない。適切な人材がいれば、保育園のようなものを運営するといいとも思われた。

 続いて、最大のキャンプ、マシュラックと、小規模のミナレット・キャンプを回る予定である。



地雷の撤去

 ヘラートの街にいると、ときどき、ずどーんと腹に答える爆音が遠くでする。
 地雷撤去の音だという。
 時々は家畜が踏んで爆発しているようだ。
 家畜もたまったもんではない。

 このヘラートは、市街地でも地雷が付設されていることで有名であったが、あのOMAR(オマール=地雷撤去を専門にするアフガニスタンのNGO)のおかげで、現在の市街地ではほとんど地雷を見ることはなくなっている。OMARによれば、この地域では1km四方に実に200個の地雷が、平均で付設されているという。これは、普通の学校のグラウンドに25個の地雷が埋まっている計算になる。
 子どもが走り回れば当然踏んでしまうであろう。しかし皮肉なことに、このソ連のアフガン侵攻時に付設された地雷は、タリバン時代にはあまり踏む人もいなかったものが、あのアメリカ軍の空爆によって、逃げ惑う人々が新たに踏み、昨年から今年にかけて地雷による被害者が非常に多くなっているという事実だ。山に逃げ込んだり、普通はいかないところへ避難してしまったために、何人かが踏んで命を落としている。この西部の街(隣のイランまで実に100kmしかない)まで、
空爆は及んでいたということだ。

 明日から、国内最大といわれる国内避難民キャンプを回る。NICCO(今回派遣してくれている京都のNGO)として何ができるか・・・、それが今のところの焦点だ。

 さて、アフガニスタンのどこを探してもないもの・・・
リンス・・・もともとリンスなどでトリートメントするという感じはないため、どこにもなし・・・桑山の髪の毛は朝起きるとパイナップルのように爆発中。ボディソープ・・・こちらでは、セッケンといえば固形。液体にしたセッケンは、説明しても全く意味が通じない。
 そりゃあそうだよね。みんなあんまり風呂には入らないみたい。乾燥しているし、寒い地域だから・・・。でも結構みんなこざっぱりしている。この2つの品は、高温多湿の日本で発展を遂げたモノなんだと改めて知った感じ・・・
 ああ、温泉に入りたいよ〜




ヘラート入り

 いよいよヘラートへ入った。
 実にアリアナ航空は5時間遅れ
 寒い屋外に5時間待つのには体力を消耗したが、空から見た真っ白なアフガニスタンの山々には 感動した。やはり、美しい手つかずの自然が残っている国だ。

 へラートは、一見すると砂漠の街である。
 まるであのスターウォーズ、エピソード1に出てくるがらくたの街のような感じだ。
 しかし気温は低い。標高が高いからである。
 夜はカブールほどではないが非常に寒い。ホテルの部屋の見たこともないような仕掛けの石油ス トーブが興味をそそる。タンクに入れた石油を、小さな蛇口からぽたぽた落として、小さめのド ラム缶のような胴体の中で燃やすのだ。蛇口の調整がうまくできなくて、火の玉のように燃えて 部屋が暑くなったり、すぐに炎がしぼんで部屋がひんやりしたり・・・なかなかヘラート人
 のようにうまく使いこなせないが、帰るまでにはなんとかしたいものである。

 さて、あしたからNICCOの事業のたち上げに全力だ。医療と教育を、このヘラートで展開す る。UNICEF、地雷除去のOMAR、学校、病院・・・回れるだけ回ってNeeds Asses
 sment を行い、事務所を借りて、人を雇い、クルマを見つけ、運転手やガイドさんを雇い・・・ 仕事は多いが、やりがいのある仕事を与えられていると思っている。


 200.2.18




 パンセット・ファミリースクール
 
 日本語に訳せば「五百人の家族のための学校」はカブール郊外の山のふもとにあった。後ろの山は恐ろしい地雷原である。この地域には地雷の被害者が多く、また国内避難民も多い地域なのだ。ここであの地雷撤去の団体、オマールが地雷回避教育をしているというので教育担当のシャーデルさんに連れてきてもらった。あいにくの雨の中だったが、この学校には6000人の子どもが勉強している。しかし教室や先生の数が圧倒的に足りないために、午前クラスと午後クラスに分けて勉強している。アフガニスタンの新学期は6月だ。今は3学期にあたり、4月、5月は学年末の休みに入る。学校は小学校、中学校とは分かれておらず、実に12年の通し学校である。つまり、7歳のときに1年生となり、順調にいくと19歳で学校を卒業する。つまり日本の小、中、高校が全部で一つになっているわけだ。
 
 
地雷の回避教育
  それは、通常の授業の合間に特別クラスを作ってOMARから講師が来て授業をするのだ。講義あり、ロールプレーゲームあり、ワークショップありの盛たくさんで3時間が人セットになっている。驚いたのはまず肉親に被害者を持つ子どもの多さだ。ざっと半数以上の子どもが3親等以内の肉親を地雷で失っているか、手足の切断という事態になっている。もう少し拡げて「親戚の中で」の被害者を問えば、確実に全員が手を挙げた。地雷の問題は、ものすごく身近にあるものなのだ。しかし先生が問うすきも与えず、大きな声で発言を求める子どもたちの姿は、積極的という一言に尽きる。20種類以上ある地雷の名前、埋まっている状態など空で暗記しているのだ。ロールプレイゲームでは、8歳の少女が、「子どもを地雷で失った母親の悲嘆にくれる姿」を演じていた。身近にそんな姿の母親を多く見かけているが故の演技であろう。熱気のこもったこの地雷回避の授業に、僕は圧倒されていた。それは、きっと子どもたちは、なんでも知りたい、どんな知識も身につけたい存在で、その乾いた大地に水が染み込んでいくような吸収力こそ、この子たちの元気の源なんだろうと思った。

 さて、帰ろうと校長室をでたときだった。5人の少女が一列に並んで待っているではないか。ブルカは外出のときの女性の正装なので、それを頭の後ろの方にひっかけた様子で、今帰ろうとしていたところに、外国人の僕を見つけて待っていたようだった。
 
 「あなたどこから来たの?」
 たどたどしい英語でさいしょに聞いてきたのは、リーダーー核のファルカだった。
 「日本からだけど、英語がしゃべれるの?」
 「うん、勉強してるんだ」と次に答えたのは長身のアディバ。
 英語のしゃべれる子どもたちに出会ったうれしくなった僕は、少し時間をもらって話をした。
 この5人は、どうしても訴えたいことがあって、僕を待っていたんだという。
 「私たちのクラスはね、窓もない、ドアもない、机もないんだよ」
 「みんな避難民の人が持って行ってしまったんだ」
 「ストーブも持っていかれたから、寒くてしょうがないんだ」
 「それからね、先生の数が足りないんだよ。よく勉強ができなくて悔しい」
 
 11時の下校時間を過ぎても、残っていたのはこのことだった。早速じゃあ、連れていってと頼んだそこは、学校の一番奥の中学年の校舎だった。彼女たちはみんな14歳。7年生だ。あと5年、勉強が残っている。彼女たちに案内されたその校舎を見て、本当に正直言葉を失った。まさに身ぐるみはがれるとはこのことか・・・。窓とドアはきれいに枠から外されていて、焼け落ちたコンクリートの部屋のようだ。中に入ると、天井の板までとられて、丸太がむき出しになっていた。机と椅子は壊れていた2つを除いてきれいになくなっている。黒板がむなしく壁に1枚、残されていた。5人は、また一列に並んで、ゆっくりと、たどたどしい英語で語りかけてくる。
 「避難民の人は恨めないよ。家がないんだもの」
 「でもね、ここまで何もなくちゃ勉強できないよね」
 「せめて窓とドアを入れてもらうと寒くないとおもうんだ」
 「ストーブはあとでもいいから」
 僕は涙がこぼれそうだった。
 正直こらえるのに必死・・・。
 年ごろの彼女たちには、もっと他に願いや希望はあるだろうに、今の一番の願いは、自分の教室に窓硝子を入れてくれないかという願いなのだ。そして、もう決まった。

 今回「地球のステージ倶楽部」に寄せられている募金は、この学校に使わせてもらいました。
衝動的で、無計画といわれる向きもあるでしょう。でも、この地にいる僕には、この切ないまでの14歳5人組の願いに適当に返事して帰ることは できませんでした。。幸い校長先生以下、先生たちはとてもよく理解してくれて、この学校は信頼できると思ったの で、倶楽部に寄せられた募金は先生たちと、この直接訴えてきた5人の少女達の前で手渡してきました。手渡したドルのキャッシュで、すべての教室の窓にガラスと扉が入れられます。
 校長先生は、すぐにその作業にかかるからと、約束してくれたので、次にこの地を訪れるときには、またPanset Family Schoolを訪れたいと思っています。募金の皆さんの気持ちに答えるためにも・・・。




 鳩の飛んだゴール

 今日は金曜日、イスラムの国では1日お休みだ。日本でいえば要するに日曜日。カブール周辺の避難民の人たちへの食料配給に参加した後、オリンピックスタジアムへ向かった。
 そう、今日はタリバン崩壊後初めてのサッカーの公式試合があるのだ。カブール代表アフガニスタン人チームを迎え撃つのは、この地を守っている国連軍、ISAF(アイサッフ)の選抜軍。7ヶ国の軍人の寄せ集めチームだ。いてつくような寒風の吹きすさぶ中、本当に4年ぶりになるサッカーの公式戦とあって、ものすごい人だ。ISAFが戦車を繰り出して整理にあたっているが、入れなかった人がいつ暴動を起こすかというありさまである。しかし、2万人の聴衆の前に現れたアフガニスタン人チームは抜けるようなカブールの青空のようなユニフォームを着て、まさにこれからのアフガンを背負っている期待の星たちだった。一方のISAFはさすが軍人。上背もあり、筋骨隆々。これじゃ子どもと大人の招待試だよ・・・と思わせてしまうような違いである。
しかし、しかしだ!!

 試合が始まって15分。空高く飛んだボールを右サイドで拾った背番号10番のザーフェルがヘディング。それは敵ゴールの目の前だ。次の瞬間、7番、サイトーツがなんと!!、オーバーヘ ッドキック!それは見事に敵ゴールキーパーの右横をすり抜けてゴール!!鳥肌が立つような、すばらしいゴールだった。2万人の観衆はもう総立ち。まるで映画のシーンのような演出だ。でも現実に起きた出来事なのである。アフガン人はどの民族も、拍手かっさい。すてきなすてきな瞬間だった。

 と、その時、わき上がるスタジアムのそのフィールドの上を2羽の鳩が低く飛んでいったのには驚いた。これもまるで映画のワンシーンのようだった。その鳩は開会のセレモニーで、風船と共 に飛ばした10羽のうちの2羽だったが、鳩たちの小意気な登場に、僕はまた鳥肌が立つような 思いで胸がいっぱいだった。
 スポーツはいいなあ。闘うけれど、ちゃんとルールがあり、感動がある。ちゃんとやれば友情だって分かち合える。このサイトーツのゴールは本当にすばらしい未来を、アフガニスタン人にくれたと思う。いつまでもいつまでもこのゴールは語り継がれるだろうし、僕も絶対に忘れない。
 
 結局は、3対1でISAFが勝った。
サイトーツのゴールしか決められなかったわけだ。でも、サイトーツのゴールは、タリバーンは崩壊し、ようやく新しい時代が来たこのアフガニスタンの象徴的な出来事だったと思う。掛け値無しに、本当に喜ぶアフガニスタン人を見ていると、2羽の鳩と共に、幸せな気分になれた。
 
 いつまでもいつまでも、このスタジアムで普通にサッカーができる時代が続きますように・・・と祈り続けた。

2月15日




 ザーフェル

 今日、シュア・バザールという、カブールの街の中ではもっとも多くの空爆の被害を受けた地域に行ってきた。街はことごとく破壊されて、まるで遺跡の発掘現場のようなありさま。そうフォロロ マーノって感じだった。本当にここに街があったのか・・・と思うばかりの光景・・・それはむかし救援に入ったイラクの南部の街、バスラの光景とそっくりだった。あそこはクゥエートにもっとも近かったから、空爆の被害がおおきかった。空爆は一瞬にして街を破壊するものだと、改めてまた感じた。

 そこで、知り合ったのがザーフェル、12歳。
人なつっこい彼はおいらのあとをつけてくるから、通訳のアジスと共に話を聞いてみた。やっぱり空爆で両親を失っていた。孤児。現在彼は、おじさんのところに身を寄せて、学校はやめて働いてる。
でもその勤め先は羊の肉屋さんで、その肉屋さん自身がまず最初の肉を買うお金がないから、開店 休業になっているだよ。だからザーフェルも失業中というわけだ。しかし、実はザーフェルには裏の手があったのだ!!

 ザーフェルはいつも小わきに長方形の箱を抱えている。
 「それ何さ」
 「これかい?これは僕の命さ」
 そこでおいらは日本人的発言
 「お母さんとお父さんの写真とか?」
 「違うよ、そんなの燃えちゃって跡形もないさ」
 「じゃあ何かな」
 そう問うと、ジャーフェルはおもむろにその箱を開いた。
 
 それはチェスの箱だった。
 ザーフェルは小学校時代も大変頭が良く、チェスでは誰にも負けたことがない。
だから彼は常に粗末なチェスの箱を持ち歩き、お金持っていそうな子どもつかまえて、賭けをする。
もちろん負けたらザーフェルが払わなければならないわけだ。でも大丈夫。
ザーフェルは全戦全勝。こうやって、ザーフェルはそれはわずかなお金だけど、チェスで勝ち抜き、自分の食いぶちを稼いでいるのであった。

 人は自分の頭脳と知力で生きていくものだと、ザーフェルに教えられた。
 それを研ぎ澄ますのは、やはり自分自身なんだ、きっと。

 2月15日




ファイゼルさんの夢

 ファイゼルさんは、最初見たときにギリシャの人かと思った。豊かな髭、つやのある白い肌。なんか地中海の島にこんな人いたよなあという感じなのだ。しかし部下にとばすその司令は正しくダリ語だ。アフガンの人なのである。ところがその話す英語がまたうまい。聞けば16年もアメリカに住み、既に国籍も取得していたのだが、12年前に帰ってきて、このNGO、OMARをとりしきっている。
 
OMARは、Organization for Mine Clearance and Afghan Rehabilitation(地雷撤去とアフガン復興の組織)の訳で、世界でも最大といわれる個数が埋まっているアフガニスタン国内の地雷撤去を行ってきた団体である。これまでの活動では、何人かの死者を出しているが、その地雷撤去(Mine Clearance)の姿勢にいささかの後退も見せず12年間続けてきている人なのだ。
今回は偶然JVC(日本国際ボランティアセンター)の古い友人、清水さんという人物がOMARに来ているというので、アポ無しで飛び込んだのだった。3年ぶりくらいにあった清水さんは相変わらず元気だけど、現在このJVCはOMARと共同事業を展開しているのだった。彼は3月末までの間駐在し、事業の遂行を図る。旧友との再開もそこそこに、ファイゼルさんは熱弁を振るい始めた。それはうっかり桑山が「ヘラートではUNICEFと共同事業を行うつもりがある」
と言ってしまったからだ。彼は強烈に反応した。
 
「どうしてUNICEFなんだ?彼らはアフガニスタンの団体ではないぞ。UN(国連)なんかに金を出したら、湖にコインを投げるようなものだ。すぐに何に使われているかわからないままに底へ沈んでしまう。UNなんかと仕事をしようとするのは、”僕たちはここにいます”ってことをアピールしたいだけのやつがすることさ。仕事としてUNのミッションはやっているけど、別にUNの人たちはこのアフガニスタンが好きで活動しているわけじゃない。”これも仕事だから”と言って、電気のないような環境にぶつぶつ文句を言いながら仕事するんだよ・でも僕は違うぞ。そしてOMARの仲間も違う。僕たちはこの国を愛しているんだ。だからここにいる。そして地雷
なんていう愛を奪うものに向かって戦いを挑むんだ。
 日本のNGOは今こそ、私たちアフガニスタンのNGOと手を組もう!私たちはこの地でのノウハウをよく知っている。しかしその代わりに世界や日本の社会に向けてのアピールはできない。また資金も専門家も乏しい。だったら、日本からは専門家や資金の提供をしてくれないか。それを、この地を愛している僕たちに提供してくれ。決して無駄にはさせないよ。
 わかっている。君達は、日本の支援者にちゃんと説明する必要もあるだろう。大丈夫、UNなんかよりもはるかに実行力のあるスタッフが毎日やっている仕事だ。日本から来た資金がどのように使われているか、きちんと説明できる。スタッフのサラリーだって、みんな公開しているぞ。UNのフランス人の給料がいくらか知っているか?UNICEFに募金したら、それがなんに使われているか、本当のところがわかるかい?
 UNにはUNの仕事とやり方がある。だからそれはいい。けれどNGOにはNGOなりの仕事をやり方がある。それは、UNの仕事を”分けてもらう”ための仕事なんかじゃない。ヘラートにいくのか。ヘラートには500人のOMARスタッフが支部を作って活動している。ざっと挙げ
ると、

1)地雷の除去・・これは基本骨格だな
2)地雷の回避教育・・これは青空でもやるぞ。地雷を知り、そこから身を守る方法の教育だ
3)地雷被害者の医療支援・・リハビリが中心だ
4)女性の教育・・知ってのとおり、タリバーン時代は女性が教育を受けられなかった。それを取  り戻すための補助教育だ。これはもう地雷とは直接関係ないが、これも間接的には地雷から身  を守る知識の礎を作るための支援だ
5)小学校の再建・・小学校まで建てているんだ
6)地雷被害者の心のケア・・これは難関だ。専門家がいないからな。

 
  Dr. Kay、OMARで働いてみんか、君はその道の専門家なんだろう!!」

 というわけで、圧倒された。
 しかし確実に、彼はアメリカのぬくぬく暮らしを捨ててここに12年もいることは確かだ。
 先日のアフガン復興会議にも招待された彼であるが、日本のNGOの地位が低いのを心底驚いていた。それは彼によると、お上の仕事を分けてもらっているという姿勢を取ってしまっているからではないかという。鋭い視点だ。
 これからヘラートへ突入する桑山であるが、このOMARとの共同作業は大変魅力的
に思えてきたものだ。

 次回は今回の空爆で町全体が破壊されたシュア・バザールの現場で出会った愛すべきザヘール、12歳の話です。

 

ブルカを脱がない女性たち

 かつて、首都カブールからタリバーンが背走して、市民がそれに大喜びしている映像を見た人も多いと思う。昨年12月7日のことだ。その時「ブルカを脱いだ女性たち」という記事かニュースがあって、「ああ、そんなふうに女性たちは強制的に全身を覆わされてきたんだ」と思い、きっとこれからは町中を堂々とブルカなんかかぶらず歩き、女性の社会進出も盛んとなるだろうと思ったものだ。
 しかし・・当地へ来てみれば、全然ブルカを脱いでいる人などいない。希にきらびやかに着飾ってブルカを着ていない人がいるが、あれはアラブ系の人だという。こっちへ来てわかったのは、ブルカは民族、宗教的な「習慣」であって、タリバーンの「強制」ではないということだ。確かにタリバーンは希にかぶっていない女性を見つけると、引きづり回してこん棒で殴るという蛮行にでたため、市民の反発を買ったが、基本的には、私たちが外へ出るときはそれなりの外出着を着る感覚で着ている。
 ここでの問題は2点だ。
 一つは、マスコミの投げかける「はまりやすいイメージが持つ誤情報」というものだ。
 「ブルカを脱いだ女性たち」と言ったとき、それが複数形であることも手伝って、「なるほどやっぱり、タリバーンは女性の人権をも踏みつぶす悪い人達なんだ」というイメージにはまってしまい、実際には脱いでいない人がほとんどなのに、すっかりアフガンの女性はスカートはいてお化粧でもして街を歩いているんだと思わされてしまったということである。マスコミが伝えるイメージ戦略の恐ろしさを知った思いであった。
 二つ目は、それでもブルカを習慣としてかぶっている女性たちの存在である。日中町中で女性の姿を目にすることは、実はほとんどない。首都カブールであってもそうなのだ。女性の姿は、夕方になって買い物の時間になると、ようやく見かける。もちろんみんなブルカを着ている。
 つまり、女性はほぼ完ぺきに家の中にいて、外出もしなければ、社会進出もしていないという事実なのである。それがこの国での女性の役割なのだ。フィリピンでは外務省だの福祉省だのと行けば、実のその要職のほとんが女性で占められていることに驚いたものだ。まあそれにはそれなりの事情もあるが、アフガニスタンで通い続けている官公庁では、正直一人も女性と会わない。本当に一人も会わない。これはこれまでの教育が、女性を排除してきたからなのである。だからこれからのあたらしい国創りに際して、この女性への教育は最重要課題なのである。信じられない話であるが、タリバーン時代は、女性は学校へ通わせてもらえなかったのだ。現実、いま組もうと思っているこちらのNGOでは、この未教育の女性に焦点を当て、教育の機会を提供し始めている。現在の6歳の少女は新しい法律で学校に通えるが、たとえば9歳になっている少女は教育が受けられないために、ほおっておかれた。
 愛すべきファーザルさんの率いるアフガンのNGO「OMAR(オマール)」では、この2人の少女を同時に学校に通わせようとしている。しかし9歳の少女はどうしても3年間分は遅れてしまっている。そこで、オマールでは、朝、昼、夜の3回を授業に充て、実施しようとしているのだ。通常のアフガンの学校は昼の時間だけだから、それに朝と夜を付け加えれば、実に3倍の勉強ができる。3年の遅れは1年で取り返せるというわけだ。もちろん絵にかいたようには行かないだろう。しかしこういった地元NGOの取り組みで、いまようやく女性たちは教育の機会が均等に得られるようになってきたのだ。
 そうして教育を受け、知性が宿ったときに、初めて女性たちはブルカを脱ぐであろう。その時が初めての「開放」なのであって、カブールが市民の手に戻ったことがすなわち「開放」でもなければ「女性の開放」でもないのだ。ブルカを本当の意味で脱ぐ女性たちを増やすために、NGOのできることはたくさんあると思われる。

 次回は、この愛すべきファーザルさんの率いるオマールと、彼の人がらに触れます。
 この団体とのジョイント事業が可能になりそうなので・・・。


 現在のカブール事情

 さて、カブールも3日目に入った。ビザの延長、NGOの登録、入域許可証・・・様々な問題が横たわり、毎日諸機関へ出かけていっては交渉の日々である。今日はいくつ回っただろうか・・・これもNGOの支援活動の初期段階では非常に重要なことである。
 この初期段階でコケると、あとがうまくいかない。だから気合を入れて、地固めに奔走している日々だ。本当は日々患者さんを診て・・・という想像をされている方もいらっしゃるだろう。しかしそれはもう少しあとの段階、第2、3次班が担う仕事。今回の桑山はとにかく「立ち上げ」という恐ろしくも何もないところに軌跡を引き、事務所を開設し、人を雇い、ようやく事業内容を煮詰めていく段階の最初の仕事をしているのである。

 さて、カブールは表面上は平穏である。もちろん毎日朝晩は冷えて氷点下なので暮らしやすくはない。
 しかし至る所に緊張がある。
 まず民族差別。
 複雑な民族構成ではあるがやはりその民族間にも歴史的かつ習慣的な違いがあり、それぞれがそれぞれに対して緊張している。旧ユーゴでは顔かたちが似ているけど、セルビア人とボスニア人は緊張しあっていた。しかしここアフガニスタンでは、顔かたちがやはり全然違い、そして緊張しあっている。だからこれは物理的に多民族が混住しているわけで、街角での口げんかや交通事故
での興奮を見ていると、かなり過激になる人がいる。
 また、ここへ来て、桑山が目指す西部の街、ヘラートには外国人の入域制限があることがわかってきた。それはこのヘラートがアフガンの中では非常にイラン寄りの民族構成であり、言葉も違うため、そのヘラート州の州知事がカブールの中央政権(あのカルザイさんが指揮をとっている)に対して反発しているためだ。これは厄介である。この西部では17万人の国内避難民が暮らしているが、生活状況は劣悪だ。しかしそこへ外国人の入域制限を架けてしまっている様子なのだ。
 これも多民族モザイク国家、アフガニスタンの一面だろう。

 昨日、米軍の空爆であった少年のところへまた会いにいった。母親と死に別れて以来ずっと兵士の父親に育てられてきた彼だったが、ついに、その父親がタリバーンによって殺されてしまった少年である。けれど、彼はその勇敢な父親の多くの友人によって、ちゃんと育てられていた。それはまさに多人数の父親を持っている子どもの姿だった。残念ながら、亡くなった父は兵士であり、その心ある友人も兵士であるため、かれは兵士として育っているが、けっして人を見捨てない、仲間意識の非常に強い民族であることを知った。

 次回は全くといっていいほど街で見かけない「女性の姿」の奇妙さについて

2月12日


フガニスタン入国

 ついに首都、カブールへ到着した
 アフガニスタン人にはついた当初からシンパシー(共感)とエンパシー(同感)を感じていた。
まず挨拶がきちんとしている。どんな人でも、目が合ったら必ず握手する。だから政府の部屋に入るともう大変だ。全員と握手するするので、時間がかかる。それほど、アフガニスタンの人たちは人間関係を大切にしているように思われた。みな初対面では気恥ずかしそうにするが、その瞳の奥には、邪気も、悪意も、敵意も全然感じられない。昔、敬けんなモスリム(イスラム教徒)の人たちに感じた温厚さと誠実さを思い出させた。あれはヨルダンの人たちとの出会いのときだったろうか・・・イスラム教とのイメージはまたもやひっくり返り、優しく誠実で質素なイメージが、アフガンの人たちにもあふれている。
 NGO活動で大切なことの一つに、その国の人を好きになるというのがあるとよくいわれるが、その意味では、「こんなすてきな人たちが困っているのであれば、できることをしていこうじゃないか」問いう気持ちになっている自分であった。現金なものではあるが・・・。

 さて、ビザの取得やヘラートに入る手続きは思った以上に難航している。
もともとビザにはうるさい国であり、政府もまだ腰が坐っていないので、毎日方針が変わる。とりあえずビザは一時的なものを取得したが、この国で活動していくにはまだまだ多くの壁がありそうだ。一つ一つ越えていかなければならないだろう。

 夕方、時間があったので、アメリカ軍が空爆して破壊したタリバーンの拠点にいった。
 戦車の残骸が転がり、廃虚と化した旧政府庁舎が岩の斜面にかしげていた。
 足元には無数の銃弾の破片や不発弾。
 アフガンの地雷撤去のNGO、OSAMR(オサマー)がこのあたりはきれいにしていたというので、安心はしているが、やはりついこの前まで戦場であったところは雰囲気が違う。人間の温かみを否定し、存在そのものを無にかえそうとする非情さがこのフィールドには転がっている。
 そこで、ムジャヒディンの戦士たちと会った。手にはカラシニコフを持つ彼らとすっかり仲よくなった。お茶をごちそうするというので、兵舎へ向かう。全然言葉は通じないけれど、彼らは日本人が好きだと言っている。優しく、思いやりのある民族だと・・・
 イラクへ行っても、ソマリアへ行っても、日本人だというだけで嫌われるということは経験したことがない。しかし、アメリカ人は、アメリカ人だというだけで嫌われたり好かれたりする。このムジャヒディンの人たちもアメリカ人に対しては複雑な思いだ。タリバーンを追い出したことについては認めているものの、どうも根底から好きにはなれないようだ。彼らのおごるお茶は、日本の緑茶のような味がするので、そう通訳を介して伝えると、ニコリ笑った彼らは、「アメリカ人はこのお茶が嫌いといった」と付け加えた。
 人間がなぜにこれほどの人種と言葉、宗教観の違いを有してしまっているのか・・・
それは常に紛争の種であるが、その違いを認め合う日は、どうやったらくるのだろうか・・。

 優しいムジャヒディンの戦士たちの向こうでたった14歳の子どもが機銃掃射のまねをしていた。
 彼はどんな大人になっていくのだろうか・・・。

2月11日
カブール
桑山紀彦

アフガン前夜    

 現在パキスタンの首都、イスラマバードにいる。ここでUNのフライトの予約やビザの取得、足固めといった先遣隊的な仕事に着手している。
 桑山にとって46ヶ国目になるこのパキスタンであるが、着いてみて思うことは、準戦時体制、つまり両隣国に火種を抱えて、あやうい均衡の中にいる国だということ。
 パキスタンは非常に緊張を強いられている国であるという印象が強い。
 ここ3カ月くらい前は、空爆の影響でジャーナリストが多く訪れ、街は活気を呈していたが、空爆の終了を間近に控え、ジャーナリストはカブールに拠点を移してい?たため、イスラマバードは閑散としている。
 しかし、昨日の情報が今日は古くなっているというくらい、状況は流動的であり、ビザについても、既にカブールで空港到着後に取れるとの噂が入って来たりと、不確定要素が強い。
 これも緊急支援の実情であろう。

 衛星電話は幸いイスラマバードでも電波の力価が450を越えて安定しているため、メールも送れるかもしれない。もちろん写真や添付書類は無理なので、シンプルな文字だけの送信になると思われるが、今後、この報告はできるだけリアルタイムを追っていきたい。

2月9日 イスラマバードにて

桑山紀彦



 今回、桑山は京都に拠点を持つ社団法人NICCO(日本国際民間協力会)の派遣医師として、アフガニスタンで活動しています。NICCOは、22年もの歴史を持つ日本のNGOで、これまで7ヶ国、現在でも4ヶ国で実際に活動をしている団体です。
 これまで桑山はJVC、AMDA、JEN、SHAREと、様々なNGOの医師として活動してきましたが、また新たにNICCOというよき仕事相手を得て張り切っています。
 その桑山が、「地球のステージ倶楽部」の皆さんへ日報をお送りいたします。


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