パレスチナの医療/2003.2.8
今日はジェニン総合病院を訪れました。
ジェニンに唯一ある自治州政府の病院で、病棟200床を抱え、内科、外科、産婦人科、小児科の大手4つを扱っています。パレスチナにある医療は一体どんな感じなのか・・・と思って訪れたが、その設備の整った様子にはびっくりしました。
まず清潔不潔の区分けは完全で、X線やエコー、心電図は当然のようにそろっています。透析室もあり、結構最近使っている機種が備えてありました。病棟は非常に清潔感があり、小児科の病棟には実に未熟児新生児室まで備わって、3人の未熟児が集中ケアを受けていました。これまで見てきた中では、イランやイラクに相当するくらいに、結構整った医療が
提供されています。この両国はアラブ諸国の中でもかなり医療が整った国として有名ですが、パレスチナにもそれに相当する設備があり、少しほっとしました。
しかし問題はイスラエル軍による包囲と通行制限です。それらのために重要な医療設備や備品、薬剤が届かず、不足してしまっているのです。重要な薬剤も道路の封鎖のために届かず、患者さんが生死の境をさまようこともし
ばしばあるとのことで、紛争のために隣国から薬が入ってこなくなることとよく似ています。
その意味では、完全にこの地は「紛争国」なのでしょう。
さて、病院の壁にはこのたびの虐殺で亡くなった人たちの生前の写真が、ポスターになって掲げてあります。
みんなはちまきをして、銃を持ち、後ろにはジョウザレムの黄金のドームが写っています。もちろん合成写真ですが、「殉教」を印象付けるように掲げてあるものです。そんな中で一枚の写真が目にとまりました。銃は持たず、代わりに救急車が写っています。そしてその前には温和だけれど、少し眉間にしわを寄せたインテリな人物がこちら
を見ています。
その人の名前をハリール・スレイマン先生といいます。
昨年3月、ジェニンは度重なるイスラエル軍の攻撃にさらされていました。ある日、ジェニンの難民キャン プにかなりの数のイスラエル兵が入り、武装組織との銃撃戦になりました。一般市民が多勢巻き込まれ、大混乱に陥ったのです。
ハリール先生はジェニン総合病院の救急担当医でしが、たくさんの緊急コールが難民キャンプから入り続け たため、2人のスタッフと救急車に載りこみ、その危険地帯に入っていったのです。
大きな声で「救急車だ!」「怪我人を救いに来た!!」と叫びながら入っていくと、パレスチナ側の銃撃は止み、先生たちは中心地に入っていけました。小さな角を曲がった、そのときです。正面にいたイスラエル兵が、その救急車めがけてロケットランチャーを打ち込んだ
のです。
それは大きくカーブを描きながらも救急車の正面、向かって右にあたりました。
そこにはハリール先生が乗っていたのです。
ロケットは正面のボンネットを貫通して、ハリール先生の左腹部にあたり、内臓が吹き飛びました。それでも意識のある先生をスタッフが引っ張り出そうとしたそのとき、2発目のランチャーが飛んできて、それは救急車の中央部にあった酸素ボンベにあたってしまったのです。
酸素ボンベは大爆発を起こし、ハリール先生もそのスタッフも身体が引き千切れ即死だったそうです。それでもなお打ち続けるイスラエル兵の前で、救急車は燃え続け、ジェニンの人々が先生の遺体に近づくことができたのは、その翌日でした。頭の部分と足だけ残し、先生の身体は吹き飛んでいたそうです。 |

ハリール医師
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この痛ましい事件を忘れないために、ジェニン総合病院は「ハリール・スレイマン病院」と名前を変え、現在に至っています。そして隣接する赤新月社にはその破壊された救急車とハリール先生の最期の姿をうつした写真が飾られています。
患者さんを救うために出かけて自らの命を落とした医師、ハリール先生のことを語るとき、今回いつもいっしょに活動してくれているサーなの目には涙がたまっていました。
「何回聞いても、何回はなしても、これほど悲しいことはないのよ」
そう、サーナとご主人の仲人役が、ハリール先生だったのです。 |